冬であった。
東京にも珍しく雪が降った。
白い雪は音もなく街を覆い、車の音まで遠くなる。
男は窓辺に立ち、静かな朝を眺めていた。
六十二の人生。
振り返れば、長い道であった。
成功もあった。
失敗もあった。
失い、悔やみ、耐えた夜も少なくない。
だが今――。
男の胸には、不思議な静けさがあった。
机の上で携帯が震える。
「雪だよ! 外見て!」
女からの短い文だった。
男は思わず笑った。
まるで子供である。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。
開けると、女が立っていた。
白いマフラーに、吐く息が白い。
「来ちゃった」
「寒いだろう」
「会いたかったから」
その言葉が、雪より静かに胸へ積もる。
女は部屋へ入るなり、窓際へ駆け寄った。
「すごい……綺麗」
雪景色を眺める横顔は、どこか幼く見えた。
男は黙って珈琲を淹れる。
湯気が立つ。
部屋には静かなジャズが流れている。
女はカップを両手で包みながら、不意に言った。
「ねえ」
「うん?」
「もし、もっと早く出会ってたらって思う?」
男は少し考えた。
二十代の自分。
三十代の自分。
きっと今ほど、人を大事にはできなかっただろう。
若い頃の男は、尖っていた。
強がり、急ぎ、何かに追われていた。
いまだから分かることがある。
沈黙の意味。
寄り添うことの重さ。
一緒にいるだけで満たされる幸福。
男は静かに首を振った。
「いや」
「どうして?」
「今だから、おまえに会えた気がする」
女はじっと男を見ていた。
その瞳には、もう迷いがなかった。
「私も」
そう言って、女は男の隣へ座った。
雪はなお降り続いている。
長い沈黙。
だが、その沈黙は少しも苦しくなかった。
やがて女が、小さく笑った。
「最初はね」
「うん?」
「変な人だと思ってた」
男は吹き出した。
「失礼だな」
「だって、メッセージ硬いし。昭和っぽいし」
「昭和だからな」
「でも」
女は男の肩へそっと寄りかかった。
「すごく優しかった」
男は何も言わなかった。
ただ、その細い肩を静かに抱いた。
窓の外では、白い雪が街を包んでいる。
時は流れる。
人は老いる。
若さは永遠ではない。
だが――。
誰かを想う気持ちは、歳を取らない。
男は思った。
人生とは、遅すぎることばかりではない。
長く生きたからこそ、辿り着ける幸福もある。
派手ではない。
眩しくもない。
けれど、深く温かい。
囲炉裏の火のような愛。
女が小さく呟いた。
「ねえ」
「なんだ」
「来年も、一緒に雪見ようね」
男は窓の外を見た。
白い世界。
静かな朝。
隣にいる愛しい人。
そして、ゆっくり頷いた。
「ああ」
その声は、とても穏やかだった。
雪は降る。
街も、人も、過去も、静かに白く包みながら。
だが男の胸の中には、確かな灯があった。
もう孤独ではない。
そのぬくもりだけで、人生は充分に美しかったのである。


