春の雨が、舗道の石を黒く濡らしていた。
銀座の裏通り、小さな喫茶店の硝子窓に、男と女の姿が並んで映っている。
男は六十二。
長い人生の風雪をくぐり抜けた顔には、若者にはない静かな渋みがあった。
女は、その男より二回り若い。
スポーツジムで鍛えた身体を持ち、笑うと目尻がいたずらっぽく細くなる。
ふたりは、もとは赤の他人であった。
ひとつの小さな画面――いまどきの世では「マッチングアプリ」と呼ぶもの――それが縁を結んだ。
はじめ男は、半ば冗談のつもりで女に言葉を送った。
「歳の離れた男など、退屈ではないか」
すると女は、すぐに返した。
「退屈なのは、歳じゃなくて中身です」
その一文が、男の胸に矢のように刺さったのである。
以来、ふたりは会うようになった。
上野を歩き、海を見に行き、夜の横浜で肩を並べて酒を飲んだ。
女はよく笑った。
男もまた、久しく忘れていた笑い声を取り戻していた。
ある晩。
川沿いの遊歩道を歩いていると、女が急に立ち止まった。
「ねえ」
「なんだ」
「十年後って、どうなってると思う?」
男は答えなかった。
十年後――七十二歳の自分。
その隣に、まだ若さを残した彼女。
世間はきっと囁くだろう。
冷ややかな目もある。
陰口もある。
男はそれを知っていた。
人生とは、若いころ思うほど甘くない。
すると女は、男の沈黙を見て笑った。
「また難しい顔してる」
「……おれは、おまえに迷惑をかける歳になる」
「じゃあ私が支える」
「簡単に言う」
「簡単じゃないよ。でもね」
女は街灯の下で男を見上げた。
「好きな人と生きるって、損得じゃないから」
男は、その瞬間、不意に胸が熱くなるのを感じた。
若いころの恋は、燃え上がる火である。
だが老いてからの恋は違う。
冬の囲炉裏火のように、静かで、深く、沁みる。
数か月後。
ふたりは海辺の町へ旅に出た。
朝焼けの浜辺を歩きながら、女は靴を脱ぎ、波打ち際ではしゃいだ。
男は少し離れた場所から、その姿を眺めていた。
風が強かった。
女の髪が乱れる。
「寒いぞ」
そう言うと、男は自分の上着を女の肩へかけた。
「ありがとう」
「風邪をひく」
「あなたって、そういうところ昔の人みたい」
男は苦笑した。
「昔の人だからな」
すると女は、急に真顔になった。
「私ね」
「うん?」
「あなたといると、安心する」
その言葉に、男は返事ができなかった。
若さでは勝てぬ。
体力も、未来の長さも敵わぬ。
だが人生を長く歩いた者には、若者にないものがある。
敗れた数。
耐えた夜。
失った痛み。
そして、人を大事にする覚悟。
女は、それを感じ取っていたのである。
旅館へ戻るころには、空いっぱいに夕焼けが広がっていた。
赤い海を見ながら、女がぽつりと言った。
「ねえ、これから先も、いっぱい旅しようね」
男は静かに頷いた。
「足腰が動く限りな」
「動かなくなったら?」
「そのときは、おまえが車椅子を押せ」
女は声を上げて笑った。
「しょうがないなあ」
その笑い声を聞きながら、男は思った。
――人生とは、不思議なものだ。
若いころには得られなかった幸福が、
六十を越えてから、ひっそり訪れることもある。
恋とは、歳ではない。
巡り合わせである。
雨の日に出会ったふたりは、
これから先、幾度も季節を越えてゆく。
春には花を見、
夏には汗を流し、
秋には肩を寄せ、
冬には同じ湯気の鍋を囲む。
そしていつの日か。
白髪の増えた男の隣で、
女はきっと変わらぬ笑顔を見せるだろう。
「出会えてよかったね」
その一言のために、人は長い人生を歩くのかもしれない。



