秋が深まりはじめた頃であった。
男はひとり、早朝の公園を歩いていた。
銀杏の葉が風に舞い、足元で乾いた音を立てる。
六十二の身体には、朝の冷気が少し堪える。
だが最近の男には、不思議な張りがあった。
女と会うようになってからである。
歩幅が広くなった。
服装にも気を遣うようになった。
鏡を見る回数まで増えた。
男は苦笑する。
――恋とは、まこと人を若返らせる。
ベンチへ腰を下ろしたとき、携帯が震えた。
「おはよう。今日も歩いてる?」
女からだった。
男は短く返した。
「歩いてる。寒いぞ」
するとすぐ返事が来る。
「じゃあ今度、私が温めてあげる」
男は思わず周囲を見回した。
誰もいない公園で、ひとり頬を緩めている自分が妙に可笑しかった。
その日の夜。
ふたりは神楽坂の小料理屋で会った。
小さな暖簾。
木の香りのする店で、湯気の立つ鰤大根が運ばれてくる。
女は箸を持ちながら、男をじっと見た。
「最近、元気だよね」
「そうか」
「前より目が若い」
男は酒を口へ運んだ。
「おまえのせいだ」
女は少し照れたように笑う。
だが、その夜。
ふとした沈黙がふたりの間へ落ちた。
店の隅では、小さくジャズが流れている。
女がぽつりと言った。
「ねえ……怖くない?」
男は眉を上げた。
「何がだ」
「私たちのこと」
男はすぐには答えなかった。
女は続ける。
「友達に話したら、驚かれた。“親子みたい”って笑う人もいた」
男は静かに盃を置いた。
その言葉は、刃のように胸へ入る。
覚悟していたことだった。
しかし実際に聞けば、痛みはある。
女は慌てて言った。
「でもね、私は気にしてない。ほんとに。ただ……」
「ただ?」
「あなたが傷つくの嫌なの」
店の灯りが、女の横顔を柔らかく照らしていた。
男はしばらく黙ったあと、低く言った。
「人は勝手なことを言う」
「うん」
「若ければ軽いと言い、歳を取れば見苦しいと言う」
女は黙って聞いている。
「だがな」
男は女をまっすぐ見た。
「おれは、おまえといる時間が好きだ」
その一言に、女の瞳が揺れた。
男は続けた。
「残りの人生を、誰と笑って過ごしたいか。結局それだけだろう」
女は小さく唇を噛み、うつむいた。
そして。
「……ずるいなあ」
「何がだ」
「そういうこと、真面目な顔で言うところ」
女の目には、うっすら涙が浮いていた。
帰り道。
石畳の坂を並んで歩く。
夜風が冷たい。
すると突然、女が男の腕へしがみついた。
「転ぶぞ」
「転ばない」
「酔ったか」
「少しだけ」
そう言いながら、女は男の肩へ頭を寄せた。
坂の上には、東京の灯りが滲んでいる。
男は思う。
若いころの恋は、未来ばかり見ていた。
結婚、仕事、成功、夢。
だが今の恋は違う。
今日一日、笑えたこと。
同じ景色を見たこと。
温かい料理を分け合ったこと。
そんな小さな幸福が、胸に深く沁みる。
坂を登り切ったところで、女が立ち止まった。
「ねえ」
「うん?」
「もし私が、おばあちゃんになっても」
女は少し笑った。
「ちゃんと手、つないでくれる?」
男は、しばらく空を見た。
秋の夜空には、薄い雲が流れている。
そして静かに答えた。
「その頃には、おれはもっと爺さんだ」
「うん」
「だから、おまえが離すな」
女は声を立てて笑った。
その笑い声は、秋の夜へいつまでも響いていた。
